2014年8月16日土曜日

愛の前立て 直江の愛兜

上杉神社の稽照殿で展示されている直江兼続所有の甲冑。
兜の上に大きな金色の「愛」の前立てでお馴染みです。
軍神・愛染明王(あいぜん みょうおう)の象徴とか戦勝を祈願した愛宕神社の「愛」からとか諸説あり、人民愛の「愛」かも知れないし本人に聞かない限りわかりませんが・・・この時代には珍しい選択の前立てではあると思います。

今回、宮坂考古館に展示されている前田慶次の甲冑とは別に、造り酒屋さん所有の慶次の甲冑を目にすることができました。ま、写真でなんですけどね。過去にNHKの天地人でわいわいしていたあたりに一度展示されたことがあるようで、今では門外不出らしいです。
その甲冑はオレンジ色鮮やかでそれはそれは見事なものでした。ネットで検索すると見ることはできますが、無断転用禁止と書かれているためちょっと写真掲載は無理なんで
http://www.taruhei.co.jp/MuseumFolder/special.html ここをクリック!
     id_p_0910_000815.gif ね、すごいでしょ!?

この左の甲冑同様、傾奇者に相応しい色使い。さぞ戦場では目立ったことでしょう。慶次の意気がミナギッテますよね。威風堂々って感じ(^^)/
宮坂考古館には直江の別の甲冑(ブルー系で統一)や景勝、謙信のもあります。こちらは重厚感はありますがとっても地味です。
今回よーく見て残念に思ったことがひとつ。それぞれの甲冑には「有形文化財指定」のプレートが置かれているのに前田慶次のものにはないんですよね~
どうして?と受付のおじさんに聞いたところ、早い話が米沢に貢献した人物ではないから・・・というニュアンスでした。
まぁ、それまで戦での武功は色々ありますが、米沢に移り住んでからは夢苦庵で隠居生活をおくっていただけですもんね。
宮坂考古館には1日に2回行きましたが、受付のおじさんは2回目無料にしてくれました「さっきも、来たでしょ?」と。ありがと~







直江が頑張って築いた城下町

直江石堤と書かれています









直江兼続は米沢に移封後、まちづくりとともに暴れ川だった松川(最上川)の水害を防止するため、総延長10kmにおよぶ谷地河原堤防(直江石堤)と蛇堤を築きました。
蛇堤とは地元の通称で、大小の河原石を横にならべて積み上げる「野面積(のずら)」と呼ばれる、戦国時代の石垣造りの工法です。この工事は下級武士を従え、兼続自ら指揮をとったといわれています。(米沢観光NAVIより引用)

この石堤は市内からちょっと離れた所にありました。護岸用にチョイチョイと石を表面に張り付けた程度のものと想像していたので、上に立って見てその幅の広さにびっくりしました。

米沢30万石に減封され、家臣団やその家族、寺社関連、職人など合わせて数万人が移り住んだと言われています。城を整備し、城下には寺町、職人町、商人町などを置き、下級武士を城下の外れに土地を与えて住まわせ、生活の為に農業をすすめて開拓した土地はその武士のものとする、というようなやり方で城下のすそ野を整備していったようです。中心には位の高い武士、すそ野に向かって位が低くなっていく、という感じでしょうか。
なので出身地が市内の何々地区とわかると「下級武士の出なのね?」と変に気にするお年寄りもいまだにいらっしゃるとか。(ふ~ん・・・)

徳川家康も一目置いた名だたる「智将」は短い間に米沢の町を造り上げていきます。
自分の石高も家臣に分け与え、質素に暮らしながらも今で言う教育にも力を入れ、産業にも目を向けるという超人的な「武将」だったんだ・・・と頭が下がります。
現代にこんな漢気のある指導者が果たしているかぁ?
とつくづく思った次第であります。


2014年8月15日金曜日

再び米沢へ   慶次どの~(^^)/

さて、去年と同じ8月12日。米沢へルンルンお出かけしたわたくしは、去年見残した直江のデカ兜をまずは見にいかねば、と思いつつ最初はやはり堂森にある慶次供養塔へ向かいました。

お線香を5本。私とあの人、あの人、あの人、それからあの人の分。前日まで台風の影響でけっこう雨が降ったようで、今回慶次清水はたぶんぬかるみではないかという思いから行きませんでした。境内に大きなハスの花が咲いていました。慶次の化身か?立派で勢いのある咲き方でしたね。
また来年来るわね~(^^)/。