2014年8月16日土曜日

直江が頑張って築いた城下町

直江石堤と書かれています









直江兼続は米沢に移封後、まちづくりとともに暴れ川だった松川(最上川)の水害を防止するため、総延長10kmにおよぶ谷地河原堤防(直江石堤)と蛇堤を築きました。
蛇堤とは地元の通称で、大小の河原石を横にならべて積み上げる「野面積(のずら)」と呼ばれる、戦国時代の石垣造りの工法です。この工事は下級武士を従え、兼続自ら指揮をとったといわれています。(米沢観光NAVIより引用)

この石堤は市内からちょっと離れた所にありました。護岸用にチョイチョイと石を表面に張り付けた程度のものと想像していたので、上に立って見てその幅の広さにびっくりしました。

米沢30万石に減封され、家臣団やその家族、寺社関連、職人など合わせて数万人が移り住んだと言われています。城を整備し、城下には寺町、職人町、商人町などを置き、下級武士を城下の外れに土地を与えて住まわせ、生活の為に農業をすすめて開拓した土地はその武士のものとする、というようなやり方で城下のすそ野を整備していったようです。中心には位の高い武士、すそ野に向かって位が低くなっていく、という感じでしょうか。
なので出身地が市内の何々地区とわかると「下級武士の出なのね?」と変に気にするお年寄りもいまだにいらっしゃるとか。(ふ~ん・・・)

徳川家康も一目置いた名だたる「智将」は短い間に米沢の町を造り上げていきます。
自分の石高も家臣に分け与え、質素に暮らしながらも今で言う教育にも力を入れ、産業にも目を向けるという超人的な「武将」だったんだ・・・と頭が下がります。
現代にこんな漢気のある指導者が果たしているかぁ?
とつくづく思った次第であります。


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