2011年9月25日日曜日

この家は誰が買ったの?

 

 葬儀が終わって数日後、ジョンはインディアナポリスへ戻り、スーザンは自分の家へ戻りフロリダから来ていた友人達も皆帰っていきました。
ジャックと私、Momの愛犬プードル2匹がシーンとした家に残りました。

ある夜、Momの友人で美容院を経営しているナタリーがやって来ました。これからどうするかという相談事で、おそらくスーザンの頼みで来たのだと推測できましたが、傍観者として何気に近くに座って2人を眺めつつ聞いていました。

ジャックはこの家に残りたいような様子です。しばらくしてナタリーが「では、この家は誰が買ったの?」と聞きました。

この家はスーザンが結婚して数年経った時に買った家。しかし夫の転勤でケンタッキー州に引っ越す際にMomが買取って移ったのです。スーザンはその2年後離婚してフォートウェーンに戻りはしたけれど仕事先の近くに別に家を借りていました。

「買ったのはメリールースだ」 「じゃあ、あなたはここには住めない。この家はスーザンとジョンのもの」 Yes, you are right ! (口には出さない私の言葉) これ、当たり前の事。

スーザンがこの家に戻るので、ジャックは近くにいい家があるからそこを買ったらいいというようなアドバイス。

「だけどここからここまでの絨毯は私がお金を出した」と玄関から居間に続く部分を指差してとんでもない事を言い出すジャック。(心の中で唖然・・・ Oh, No  Jack !)



それからの事の顛末はスーザンからのメールで分かりました。
ジャックは結局は引っ越したが、ほとんどの家具を持って行ったと。更に遺産も自分には取り分があると主張し(5年近く同居)訴えたというのです。
スーザンは受けて立ちます。そしてジャックが持って行った家具の返還を求めてこちらも訴えます。交通事故の裁判もかかえ、この頃のスーザンは本当にストレスフルな日々だったと思います。


遺産を管理しているファイナンスには誰かは分からないが「どれ位あるのか?」というような電話もかかってきていたらしく、2分の1にあたる弟ジョンの財産の行方を心配してスーザンはある決断をします。
ジョンは全く見えないというほどではないけれど視覚障害者です。男なのでジャックを頼っていましたが事業の話を持ちかけられたりしていたらしく、察知したスーザンがジョンの財産を守るため「ガーディアンシップ」(後見人制度)を決めたのです。
ジョンは後見人のOKがなければお金を引き出せなくなり、当然なぜ勝手な事をしたんだと怒ります。大人ではあるけれど、人のお金をアテにするような人物らからジョンの資産を守らなくてはという親心が姉弟を疎遠にさせる原因になってしまったのは残念な事です。


スーザンはジャックにビタ一文渡すこともなく、家にあったジャックの物以外の家具すべてを奪取できたものの、愛犬2匹だけは認められず戻ってきませんでした。それが何より悔しく、悲しかったようです。





そして数年経った6月のある日、ジャックから「ジョンが結婚する」という電話がありました。
私はジョンの結婚式に出席するため、再びなつかしの Fort Wayne を訪れる事になるのです。


to be continued





2011年9月11日日曜日

2001年9月11日

Fort Wayne(フォートウェーン)はアメリカ インディアナ州の首都インディアナポリスに次ぐ第2の都市です。
葬儀の終わった翌朝、疲れと悲しみとでほとんど眠れずにまだベッドにいた私にジョンが声をかけてきました。
We had two tragedies
悲劇?惨劇? 何だろうと思いながらリビングのテレビの前に座りました。
そこに写しだされていた光景は、まるで映画の1シーンかのような衝撃的な映像でした。
What happening !?
ニューヨークにあるツインタワーの北棟、南棟から炎と黒煙が立ちのぼり、今にも崩れ落ちそうな状況でした。
What's the other one ?
これが1つ目の悲劇ならもう1つは何なんだ。
Pentagon」(ペンタゴン)


この日の朝、テロリスト達にハイジャックされた4機の航空機のうち、2機がNY、1機が国防総省の本庁舎に、もう1機は(後で明らかになった事)ワシントンD.C.の議事堂を狙ったとされていますが地上からの連絡などからハイジャックされ自爆テロであると知った乗客たちが機を奪還しようとし、テロリストの目的は阻止できたものの数百キロ離れた地に墜落してしまったのです。

着替えもせず、顔も洗わず夕方までテレビに釘付けです。英語が理解力の限界を超えていた為、部分、部分で解っても話が繋がりません。ボーっとしながら映像だけを見ていました。

1機目がタワーに衝突した時点では単なる航空機事故という報道だったようです。しかしその十数分後テレビの実況中に南棟にもう1機が衝突、炎上したのを見て「何かが起こっている」と皆察知したようです。アメリカのみならず、世界を震撼させた「アメリカ同時多発テロ」が起こったのです。



こんな状況の中で日本に帰れるのか心配になってきました。

16日の便の予定を早めることができるかどうか、ノースウエストに何度電話をかけても繋がらず、直接空港のカウンターに出向きました。空港は閉鎖されていましたが事情を話して入れてもらい、問い合わせたところ混乱しているのでいつ再開されるかわからないという返事。

この空港に数人の日本人らしき女性がいたので声をかけたところ、カナダに行く予定だったのがここで降ろされたという事で「どうしよう・・・。」と困った顔をしていましたが、とりあえず目的地へ飛ぶ便が出てくるまで待つようでした。

私は数日後再び空港に出向き、帰りの便の予約確認を済ませましたが、2日延びて18日デトロイト経由で帰れることになりました。

スーザンとジョン静かに眠るMomにさよならを言って前の晩、空港近くのホテルに宿泊。
出発の朝、空港の待合室で空港警備員らしき人に名前をたずねられました。
聞くと、私の乗る飛行機はキャンセルされたので今から出る便に乗ってくれという事、さらにもうすぐ離陸すると。
「え~っ!もうちょっと遅かったら帰れなかったじゃないの~」とあたふたと乗り込むと機内にはたった13人。100人は乗れるような飛行機に13人とはさすがアメリカ人、危機管理がしっかりできてるんだと思いながらデトロイトで乗り継ぎ、無事日本への帰国となったわけです。


さて、悲しみの癒えない葬儀から数日後、新たな問題が起きつつありました。
Momにはジャックというパートナーがいたのですが、結婚はせず数年前から同居していました。
ジョンは仕事がインディアナポリス、スーザンは別に家がありジャックだけが残ったMomの家と遺産の取り分を巡ってこの問題は後に裁判にまで発展するのです。

to be continued

2011年9月5日月曜日

10th Anniversary

2001年9月5日。
この日も私にとって忘れられない日になりました。

アメリカ行きを1週間後に控えた9月6日の朝、会社のPCにジョンからのメールが届いていました。
彼の母、メリールースが交通事故で亡くなったと。
彼女は私にとっても母のような存在であり、ずっと「Mom」と呼んでいた人です。
受け取る手紙の書き出しはいつも Dear My daughter No.2(2番目の娘)でした。
7年ぶりに再会を楽しみにして矢先の事・・・。(愕然)
あわてて国際電話をかけました。

友人のマリーとミシガン州へ出かける途中、信号待ちをしていた乗用車に大型トラックが追突し、走行中だった彼女の運転する車にほぼ正面から衝突したのだという事、他州での事故のため諸事情で葬儀は10日になるという事、頭の中で「どうしよう、どうしよう」という思いが駆け巡ります。

会社で済まさなければならない仕事があった為、すぐには行く事ができず、とりあえず13日の航空券を10日の朝発に変更してもらい、葬儀には間に合わないかも知れないけれどアメリカ時間10日の昼頃には着けるし、もしかしたら最後に顔を見ることはできるかもと、スーツケースに喪服も入れて慌しく出発したのです。

けれど、家に着いた時にはもう葬儀を終えたジョンが戻って来ていました。
姉のスーザンが迎えに来て墓地に連れて行ってくれました。ほんの数時間前に埋葬されたとわかる跡が痛々しく、顔があるであろう場所に膝をつき、芝生にキスをしてお別れをしました。

Mom, you are always in my heart, I love you ....... 


この日から10年、アメリカのProflowersという(日本でいう花キューピットみたいな)お花やさんを通してブーケを送り続けています。
今年のお花はピンクローズとサフィニア

アメリカに住んでいる家族や友人へお花を贈る際に日本から送るよりも便利かも知れません。


そしてこの日の翌朝、アメリカで前代未聞の事件が起こります。

to be continued